1934年 初代 三原脩
鈴木尚広選手のつけている12番という背番号。この番号を背負ってきた読売ジャイアンツ歴代の選手たちについて紹介したいと思います。70年以上の歴史を誇る読売ジャイアンツで鈴木選手と同じ背番号をつけてきた先輩たちはどのような選手だったのでしょう。ファンの知識として知っておいていただけたらと思います。
それでは第一回目です。
意外と知られていないのですが、読売巨人軍初代の背番号12番は三原脩さんでした。
1934年、大リーグ・オールスター・チームと対戦した全日本チームを母体にして、大日本東京野球倶楽部という職業野球団が結成されます。この球団が現在の読売ジャイアンツのルーツとなるわけですが、その契約第一号の選手が三原脩さんでした。
戦後すぐの1947年から50年にかけてジャイアンツの総監督となり、1949年はチームを率いて戦後初の優勝を飾りました。そしてその後、西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)、大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)などでも監督をつとめ、知略の限りを尽くした戦術を駆使して「魔術師」あるいは「知将」と呼ばれ、プロ野球の監督の地位を高めたことで知られているプロ野球界の偉人のひとりです。
しかし選手生活は1934 年から38年までで、実働は3年間と非常に短いものでした。もともとは俊足で堅守の内野手でした。早稲田大学の1931年、春季の早慶戦2回戦の7回2死満塁の好機に、慶応大学の水原茂投手から奪った勝ち越しホームスチールは、東京六大学野球の歴史に残る出来事として多くの人によって語り継がれています。
しかし大日本東京野球倶楽部に入団してすぐに軍隊に応召されて、再びチームに戻ったものの猛練習で肩を痛め、さらに2度目の応召で中国上海近くの南翔で脚を負傷し、選手生命は短くなってしまいました。
1934年12月の大日本東京野球倶楽部創設時、三原脩選手は背番号12番で登録されましたが、翌年の1月には軍隊に入営。実際には背番号12番のユニフォームは着ていません。初代の背番号12番は登録上の12番だったのです。
なお、軍隊から一時帰還した1936年からは選手兼任助監督となり、背番号は12番を逆にした21番をつけていました。
●1911(明治44)年11月21日香川県生まれ、丸亀中学から高松中学へ転校、早稲田大学、全大阪、大日本東京野球倶楽部、東京巨人軍。実働3年、出場108試合、通算打率.226。
[監督履歴]読売巨人軍1947年〜49年、西鉄ライオンズ1951年〜59年、大洋ホエールズ1960年〜67年、近鉄バファローズ1968年〜70年、ヤクルトアトムズ1971年〜73年。監督在任通算26年、3248試合、1687勝、1453敗、108分、通算勝率.537、優勝6回、日本シリーズ制覇4回。
1983年、野球殿堂入り。
1984年2月6日没。
2008/07/17



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