1935年 2代目 新富卯三郎
身長は163センチと小柄ながら、小倉工業で三塁手の強打者として甲子園に出場し、卒業後、門司鉄道局に入り四番打者として活躍。1934年、大日本東京野球倶楽部に入団。当初の背番号は20番でした。しかし翌35年、三原脩が応召で不在となり、この年行われた第一次アメリカ遠征では背番号12番を背負うこととなりました。
この遠征から大日本東京野球倶楽部は東京巨人軍と名のるようになります。第一次アメリカ遠征で使ったユニフォームの背番号はなんと漢字で、新富選手の背中には「十二」の文字が縫い付けられていました。
アメリカでの試合では打線の中軸を打ち外野手として活躍。このとき寝台車で到着したノース・ダコタ州東部のファーゴ駅で寝過ごして、あやうく列車に取り残されそうになった逸話があります。遠征のマネージャーだった鈴木惣太郎が点呼をとったところ、ひとり足らないことに気がつき、慌てて寝台車に戻ると、新富選手がベッドでまだ熟睡中。
「びっくりしたのは本人より私でした。列車は今にも発車しようとしているのです。大急ぎで新富をゆり動かすと共に、荷物を窓から放り出して寝ぼけ眼の新富を辛うじてホームに連れ下りるという間一髪の差で列車は揺らぎだしました。新富は実に落ち着き払った、いつも悠々とした快漢です。こうした際にもニコニコとして、少しも物に動じないのです」と、後に鈴木は雑誌ベースボールに書き残しています。
アメリカ遠征の翌36年、軍隊に応召されて巨人軍を退職。しかし除隊後39年から阪急軍(現オリックス・バファローズ)に入団。41年の秋季リーグでは 3割2分5厘を打ち首位打者となります。ところがシーズン終了後に再び軍隊に応召され、終戦間際の8月にビルマ戦線で戦死、戦争で帰らぬ選手の一人となってしまいました。
●1915(大正4)年2月13日福岡県生まれ、小倉工業、門司鉄道局、大日本東京野球倶楽部、東京巨人軍、阪急軍。実働4年、出場147試合、通算打率.278。
1945(昭和20)年8月1日没
23-7-2010









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